大山崎・障がいをもつ人とあゆむ会とは
1980年に発足した大山崎共同作業所を作る会が始まりです。
大山崎共同作業所づくりの経過「つくる会発足から後援会活動」に至るまで
「つくる会」から「後援会」結成まで
大山崎共同作業所をつくる会が発足したのは1980年(昭和55年)。
大山崎に障がい児のためのサマースクールが開催された翌年のことです。
「今はいい、卒業後が・・・」「どんなに障がいが重くても通える作業所に」
こんな思いをお互いに確かめあいながら何度も会合を持ち、
町内にその声を広げていったのです。
◎1981年(昭和56年)
3600人の署名を添えた誓願が町議会全会一致で採択され、
当時の津田町長さん(故人)は町としての建設を約束され、
私たちはお互いに勇気づけられました。
◎1983年(昭和58年)
町の総合計画のなかに町体育館と同じに予算化、
「1986年開所」が盛り込まれました。
が国際障害者年を記念したこの計画はその後、行政の姿勢が変わるなかで
京都国体用の体育館は建ったけれど作業所は建たなかった・・・・・
という結果に終わりました。
◎1986年(昭和61年)
向日が丘養護学校高等部を卒業したひろみさんと指導員の西原先生(旧姓山口)で
自主開設に踏み切ったのは6年越しの運動を応援してくださった人々の厚い思いに答え、
ひとりでも在宅させないという決意からでした。
「世界1小さい作業所だけれど世界一すばらしい作業所にしよう」
この言葉を大切な励みに作業所は歩んでいきました。
「共同作業所ができると必ず入所者が来る」そう聞いていたとおり、
ひとりからふたり、ふたりから3人と、仲間が増えてきました。
◎1989年
3年後には5人の仲間がそろい、
念願だった公的な補助金が京都府及び大山崎町から出るようになりました。
その時点で運営委員会の構成が変わり、
教職員組合や町職員組合、小中学校育友会の代表は運営委員会から退くことになり
新たに作業所後援会として活動を始めるに至りました。
このあと、1997年5月まで大山崎共同作業所後援会としての活動が続きます。
そして、後援会としての活動からもう少し視野を広げ、
大山崎町の全ての障がいをもつ人と地域住民との相互理解の場へと発展します。
大山崎共同作業所後援会から大山崎・障がいをもつ人とあゆむ会へ
TOPへ
大山崎共同作業所づくりの経過「つくる会発足から後援会活動」に至るまで
「つくる会」から「後援会」結成まで
大山崎共同作業所をつくる会が発足したのは1980年(昭和55年)。
大山崎に障がい児のためのサマースクールが開催された翌年のことです。
「今はいい、卒業後が・・・」「どんなに障がいが重くても通える作業所に」
こんな思いをお互いに確かめあいながら何度も会合を持ち、
町内にその声を広げていったのです。
◎1981年(昭和56年)
3600人の署名を添えた誓願が町議会全会一致で採択され、
当時の津田町長さん(故人)は町としての建設を約束され、
私たちはお互いに勇気づけられました。
◎1983年(昭和58年)
町の総合計画のなかに町体育館と同じに予算化、
「1986年開所」が盛り込まれました。
が国際障害者年を記念したこの計画はその後、行政の姿勢が変わるなかで
京都国体用の体育館は建ったけれど作業所は建たなかった・・・・・
という結果に終わりました。
◎1986年(昭和61年)
向日が丘養護学校高等部を卒業したひろみさんと指導員の西原先生(旧姓山口)で
自主開設に踏み切ったのは6年越しの運動を応援してくださった人々の厚い思いに答え、
ひとりでも在宅させないという決意からでした。
「世界1小さい作業所だけれど世界一すばらしい作業所にしよう」
この言葉を大切な励みに作業所は歩んでいきました。
「共同作業所ができると必ず入所者が来る」そう聞いていたとおり、
ひとりからふたり、ふたりから3人と、仲間が増えてきました。
◎1989年
3年後には5人の仲間がそろい、
念願だった公的な補助金が京都府及び大山崎町から出るようになりました。
その時点で運営委員会の構成が変わり、
教職員組合や町職員組合、小中学校育友会の代表は運営委員会から退くことになり
新たに作業所後援会として活動を始めるに至りました。
このあと、1997年5月まで大山崎共同作業所後援会としての活動が続きます。
そして、後援会としての活動からもう少し視野を広げ、
大山崎町の全ての障がいをもつ人と地域住民との相互理解の場へと発展します。
大山崎共同作業所後援会から大山崎・障がいをもつ人とあゆむ会へ
TOPへ